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猫まっしぐら。投瓶通信です。
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他者について。第三者の審級について。
『<自由>の条件』から他者について。考えをまとめる練習的なやーつ。でも肝心なところが理解はできるけど、「腑に落ちる」というか心から実感を伴って納得できていないので、その点も書きます

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・「他者」について

他者とは不思議なものだ。不思議というか、端的に謎である。何を考えているかわからないし、何を感じているかは永遠に(他者が他者である限り絶対に)共有できない。これは考えると結構怖いことで、私の隣にいるものは、本当は謎に包まれた得体の知れない「他者」だ。まったくの不確実である種危ないやつなのだ。大澤真幸はこれを「他者とはある意味で(端的に知覚不能という意味で)死の体験だ」と述べている。

しかし、私たちは日常的に他者と接している。知っている人はもちろん、外に出て電車に乗ったりすれば全く知らない人と隣に座ったりしている。他者の危なさ=不確実さはどのように縮減されているのか?

私たちは日常的に他者と話したり、目が合ったり、触れたりする。その他者と接するところに不確実さを縮減する萌芽がある。

他者と接するときには常に2つのベクトルが存在する。「私→他者」と「他者→私」どちらか一方だけのベクトルはありえない。どちらか一方だけのベクトルの場合は対象物は「他者」ではなく「もの」として私にあらわれる。「他者」を見ることは見られることでもあるし、他者に触れることは他者に触れられることでもある。

しかし、その他者の現れ方は非常に独特だと大澤真幸は言う。「「他者」は私にとって徹底的にネガティブな形で現れる。他者は私が捉えようとしたその瞬間に逃れ去ってしまう。」「他者」の視線や肌のぬくもりを意識したとたん、その「他者性」は逃れていってしまい、私たちは「他者性」を痕跡としてしか感じられない。いわば「他者性」は「永遠の過去」として私たちにたち現れてくるのだ。

この「永遠の過去性」が他者の不確実を縮減する「第三者の審級」を生むのだ。

私が他者を追い求めると、その他者はもはやそこにはいない。このことがさらに私の前に立つこの他者とは異なる他者 ー同じ空間のうちにあって私と顔を合わせて対峙することがあり得ないー 、「かつて私を見ていた」「かつて私に触れていた」と見なしうる他者が存在していたことを含意するものとして、感受されることになるのだ。

つまり、「他者」とは私にとって常に過去(そこにあった)という形で感じられるそのことが、間主体的な身体=第三者の審級を生むということだ。

こうして「他者性」の過去性が抽象的な間主観的ネットワークを生み、他者の不確実性が縮減される

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以上が大澤真幸の「第三者の審級」が生まれる過程の荒っぽい描写です。すごく抽象的でわかりにくいので、僕なりにくだけた形で言い換えると、

「他者っていうのは常に過去形で感じられる。もしくは他者っていうのは常に痕跡を感じるものだ。」

「つまり、私たちにとって他者は常に過去。そうすると常に過去にいたっていう「ぼんやりとした他者」っていうのが生まれる。人がその存在を何となく感じられて、行動や考えになんとなく基準や規範をもたらしてくれる抽象的な他者が生まれる」

っていうことなんだけど、やっぱり自分で書いてても、なんとなくしっくりこないというか。とくに太字にしたところが納得できないな。

「他者を感じるのは常に過去系→常に過去にいたと感じられる規範や基準をもたらしてくれる抽象的な他者」っていう論理の流れはわかる。

ただ、他者は常に痕跡を感じるもの→共同主観の成立=他者の未来性の縮減=他者の不確実性の縮減って考えると全然わかんなくなるな。不確実性の縮減って言うことは、ある程度「行動の幅」が定まると言うか、突拍子もないことをする可能性がなくなっているっていうことでしょ?

なんで「他者性は常に過去形」だと他者の行動まで予測可能になるんだ?時間を一本の軸として論理を転がしている気がするなあ(もちろん私の理解力が及ばないだけであり、これはイチャもんです。真幸先生ごめん)

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ただ、この第三者の審級っていう考え方はすごく面白くて、いろいろなことがこれに結びつけて説明できます。

たとえば、この本の中で述べられていることだけど、スポーツにもこの第三者の審級は関連してます。

いままで、誰も成し遂げられてない記録(例えば100メートル9秒台とか)が1人によって達成されると、その記録を多くの人が達成できるようになるのか?

これは大澤真幸によると、その記録が第三者の審級に承認されることによって、多くの人によって到達可能な記録と考えられるためだということです。

僕なりに言い換えると、「一回達成されると、その記録が人々が狙う範囲内に入る」って言う感じでしょうか。

もちろん、アスリートの人は前人未到の記録に到達してやろうとがんばっている訳だけど、共同主観に絡めとられて生きている人は「無理なんじゃないか」って無意識下で思っちゃってるんじゃないか。

でも、「天才」って呼ばれる人はその共同主観に登録されていない記録を狙うことができる。つまり「共同主観を更新できる」人なんじゃないか。

この考えはとても納得できるものであった。天才って言われるプレーヤーはどこかエキセントリックなところがあったり、性格面も尖っているところが多いのはそういう心の機制があるからなんだなーと思った。

そういえば、自分が好きなサッカー選手もそういうようなキャラクターが多いなって思った。いや、サッカー選手に限らず、自分はそういうキャラクターに人よりも強くあこがれを抱いていると思う。

まあ、何はともあれ、スポーツにも(というか人間社会の多くの場面に)考えを敷衍できる第三者の審級です。初見だと何となくつかみにくいけど、大澤真幸をいろいろ読んでいるうちに立体的にわかってくるし、ラカン・ジジェクなんかの「大文字の他者」と非常に近いので理解できるとその辺もわかりやすく読めると思います。



・・・文章の終わらせ方って難しいなーw 空中キャンプはやっぱりすげーや。でも文章書くと新たな考えとかが生まれたり、「俺って感覚で理解してんなー。もっと論理的に説明できるように理解しなくては」と反省したりと、文章書くのは面白い体験だと改めて思ったのでがんばって更新していきたいです。
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