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猫まっしぐら。投瓶通信です。
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メディア芸術祭から考える
おいっす。今日は六本木・国立新美術館でやってるメディア芸術祭に行って参りました。

新しい表現方法を用いたアートが多く展示されてたりとか、話題のゲームやマンガもいろいろ展示してあったり、サカナクションのPVとかもあって、堅苦しくなくて面白いです。でも、メディアアートってどういう意味なんだろな?メディア=媒体のアート??メッセージとは別の仕方アートが存在してるってことかな?言ってて自分で意味わからんわ

あー、それで、見てて気になったことが1つあるんですけど。っていうか、これはあんまりメディアアートに限らずこないだbunkamuraにモネ展見に行ったときも思ったんですけど。あのー、展示の脇にある、作品を紹介するボードってあんまり意味なくないですか?

いや、うそ、(特にメディアアートはないと意味わかんないの多いから)あって、作品の成り立ち?とか作成手法みたいなのを知れるのはまあ有意義だと思うんだけど、なんつーのかな?例えば、「この作品は○○が特徴となっている現代社会の××を表現した」みたいに、作品の意図を思いっきりしたり顔で解説してるやつあるじゃないですか?アイツがね、ムカつくのよ。

まあ、それぞれの作品に意図があるのも分かるんだけど、それって解説すべきことなんか?解説すべき、っていうか、そんな10センチ四方のパネルに書ける言葉で「意図」を説明しても、その作品の「よさ」は何も説明してねーって思うな。

例えば、「The men in gray」っていう作品が今日すごいよかったんですけど、(その作品の詳細な解説はしないけど)その作品のパネルには「〜〜で、重大な情報が安易な形で流通している現代社会の不安を表現した」って書いてあって、これにすごい違和感を感じた。

「たしかに、現代は重要な情報が無防備に流れているのかもしれないけど、そんな言葉だけで作品を説明しきれたらこの表現形態の意味ないでしょ!んもう!」って思った。そのことだけが言いたかったら、標語やらなんやら作るか、もしくは啓発するヴィデオとか作ったらいいんじゃね?

そうじゃなくて、設定を作り、(見かけだけにせよ)装置を作り、演者をたてて、物語にするっていう過程を経ることで、そんな言葉には回収できない「余剰」みたいのが生まれ、そこに人々は惹き付けられるんじゃないかなあ。

実際、僕もこの作品はすごいいいと思いましたけど、「ああ、現代社会は重要な情報の多くが無防備な形で流れているなあ。もっと気をつけなくては!これ見てよかったー!!」なんて全然思わなかった。むしろ、何の目的も持っていないようで、ただただ人々の情報を淡々と収集して披露するこの2人が、どことなく不気味だけどおかしみを感じさせるような、そんなようなところがいいなあ と思いました(ここはまだまだ自分としても曖昧。よさを表すのって難しいー!)

っていうか、最近思うけど、何かを見たり、聴いたり、感じたり、味わったり、たりたりたり・・・しているときに、「この作品は○○を意図して、このシーンはそのために××な効果を期待して挿入されていて、、、、」とか考えている時点で、その作品って、鑑賞している人にとってはあんまりいいものじゃないと思う。

それよりも、「うわー、なんかよくわかんないけど、このシーンのこの風景心に残ったわー!全体としても、なんであの人物がこういう行動をしたのかよくわかんないけど、すげー感動した!!」とか(ここもまた表現へただけどw)そういう風に思えるものがいい芸術っすね。

あー、あと、さいごに1つだけ、書きながら思ったんだけど、その作品の作者が思う意図って絶対的なもんなのかな?例えば、作者が人生のトラウマを仮託して物語を書いたとして。それを受け手が自分の人生で起きた重大な事件に引き付けて解釈したとして、それは前者が唯一の正解で、後者の方が間違っているってことになるんかな?


最後の段落がない方がきれいにまとまったかもしれませんが。こんなところで。

※今日の気取りポイント
7段落め ビデオじゃなくてヴィデオって書いたところ
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『メタボラ』から考える
読了しました。

つまらなくはなかった。と思う。ギンジが記憶を取り戻していく過程は気になって、どんどんページをめくった。また、家庭内暴力、工場派遣労働の描写には揺さぶられた。

ただ、まったく「惹き付けられた」「読み返そう」とは思わなかった。あ、多分ここからメタボラの感想にあんま関係なくなるわ。僕がメタボラを読んでまず思ったのは、「わかりやすすぎる物語じゃないか?」ってこと。

例えば、「揺さぶられた」と上に書いたけど、なんていうか、これはつまり力づくな感じがしちゃったんだな。家庭内暴力とか工場派遣労働っていうひどい現実を見せつけられて、確かに揺さぶられはした。でも、そりゃそうだろう?っていう思いがすっごく強かった。

でも、僕はこういう(ある意味で)予定調和な「感動」はぜんぜん惹かれないんだなー。惹かれないんだニャー。予定調和というか、なんて言えばいいんだろ?刺激と反応のわかりきった関係、かな(まだわかりにくいけどw)「そりゃ家庭内暴力うけたり、搾取的労働させられたりしたらこっちも痛々しい気持ちになるでしょ」みたいなw

僕が惹かれるのは平気で裏切ったり、理解できなかったり、受け入れられなかったり、する物語。そういう物語から生まれる感情は名付けがたく、由来もわからず、そしてどこへ行くんだ?そういう感情を生み出す「わからない」物語のほうが、開かれている気がする。わからない分、それぞれが自分の人生や考えを投影できるものであると思うし、その分多くの人に届くんじゃないかな。その意味で、今回のメタボラはすごく閉じた物語だと感じた。

ただ、「わからない」物語を楽しむのは本当に大変なことでもある。投影するってことは自分との対話であり、物語をつうじて自分のなかに降りていく作業でもあるから。やっぱり、普段から自分の感情を深いレベルで受け止めるというか、刺激に対して単純な反応しているだけじゃ、そういった深みはわかんない気がするなー。気がするニャー

あーー、この段落↑すっごく抽象的!ちきしょう!ニャーでごまかしきれてない感丸出し!


、続けます。そういういい物語っていうのは、相反する2つの魅力を兼ね備えてなくちゃならない。つまり、「わからないけど、わかりたい」って相手に思わせなくちゃいけない。作り手の立場から言うと、これってすごく難しそー。映画とかテレビとか見てて思うけど、そういうものって今は本当に少なくなっているな。

深くは立ち入らないけど、そういう2つのベクトルをもつには、伝えること矢表現することでは「何を」よりも「どのように」っていうのが大事な気がする。気がするニャー。




引きの魅力
ガタカ
DVDにて。恵比寿ガーデンシネマの閉館に伴うプレイバックに選ばれているのも納得な名作でした。

この映画を見て一番勇気づけられたのは、主人公が運命に立ち向かっていく姿だった。遺伝子が支配する世界で、ジェロームの助けも借りながら降り掛かってくる障害に立ち向かう姿はほんとうにかっこよかった!

いちばん印象に残ったのは、ランニングマシーンで心拍数をはかるシーン。データ自体はジェロームから借りながらトレーニングをしてるだけど、終わって1人になったとたんにどっと疲れた姿を見せていた。でも、それまではなに食わぬ顔をしてトレーニングしていて、そのギャップに驚き、そこまで自分を追い込める姿に感動した。

ジェロームの描き方も最高だった。最初は取っつきにくそうだけど、ビンセントのパワーに魅了されてどんどん協力的になっていく姿がよかった。階段を手で登るシーン、とてもよかったし、「夢をもらえた」っていう言葉もよかった。



気になったシーン。
「タイタンは厚い雲に覆われている。何があるかは全然わからない」「何にもないかもな」っていうやり取りは遺伝子のことを暗示している?「本当は何もないかもしれない?」

「顔なんて誰も見ちゃいない。遺伝子のデータだけが重要なんだ」っていうところは示唆に富んでいた。これは肩書で人の多くを判断する我々にもいえることじゃないか。

最後の医者のシーン。医者はずっとビンセントであることを気づいていたのでは?だから欠陥のある子供の話をしたんじゃないかなあ。



とってもいい映画でしたので、ぜひ!
月に囚われた男
恵比寿にて。めっちゃ面白かったです!

まずは物語のアイデア勝ちかな?古い方のサムが事故にあったときと、新しい方のサムが目覚めるときを観客を混乱させるように描いているのは「やられたー!」と思った!他にも、救助隊の到着っていうタイムリミットをもうけて物語に緊迫感を出しているところもうまいと思いました。

印象的な描写はガーティ(お手伝いロボットみたいなやつ)に関してが多かったなあ。ガーティには小さめのウインドウがついてて、顔文字?ニコちゃんマーク的なのがそこに表示されることで表情(の代わり)をしている描写が心に残った。

そのウインドウの絵文字自体はとってもチープなんだけど、それとは別に多くを物語っているように感じたのがガーティについているカメラの動きだった。ガーティは本社から派遣されたロボットだからもちろん基本的には、クローンのことなど不都合な真実は隠すように話す。でも、ずっと一緒に過ごしているサムに親密な感情を抱いているようでもあって、その葛藤がガーティのカメラを通して表されているように感じた。具体的には、カメラの焦点を合わせるような動作音がして会話の間が開いているような描写が、「ロボットが迷っている」っていう難しい状況をうまく表していたと思う。

あと印象に残ったのは、地球に脱出するサムに向かって「覚えている通りの地球だといいね」っていうガーティの言葉。「移植された記憶」を持つサムにとって、地球は断然した存在であり、うまく言えないけど、サムのこれからの波瀾万丈を予言しているような言葉であると感じた。

また、ラストの「こんなやつ不法移民かホームレスに決まってる!」っていうせりふもなんだか引っかかった。地球に戻って会社を告発して、っていうこれからの展開も決して簡単じゃないっていうことを示したせりふだったのかなあ。



引っかかってるだけでうまく表現できないところも多いけど、純粋に物語としても楽しめる、とってもいい映画でした。アマゾンで検索したらデビッドボウイ主演の映画とバーターでDVDが売られているので、それを買って見返してみてもいいと思うくらい楽しめました。
180 south
渋谷シネクイントにて見ました!とってもいい映画でした!


この映画は、パタゴニアとノースフェイスの創業者の2人がかつて登ったコルコバド山に憧れて、1人の若者が目指すっていう映画です。

そのなかでパタゴニア創始者のイヴォンがいう「山頂に登ったからといってなにがあるわけではない」っていう言葉が心に残った。

んで、イヴォンはこう続ける。「聖杯を探すようにその過程が大事なのだ」この言葉は旅や冒険の本質を表しているなーと思った。確かに山頂に着いても(景色がきれい、とかは確かにあるかもだけど)取り立てて何があるわけではないよね。それよりも、そこに向かうまでの様々な障害を乗り越える体験や、自分の肉体や精神と語らう体験がこそが大事で、挑戦することの過程こそが冒険のすばらしさなんだなーと感じた。

これは冒険とか旅行に限らず何でもそうかもしれないけど、「○○にいった。××をした。」っていう事実とか外聞が重要なんじゃないよね。それよりもその過程で「〜〜に挑戦してこんなことを感じた。」とか「△△なことに感動してこんなことを考えた。」っていう経験こそが自分の血となり肉となる、って感じました。

また、この思想は言葉だけじゃなく、このドキュメンタリー全体を持ってしても描かれます。これは以下ネタバレですけど、この主人公のジェフは目的の山に登れないんだよね。正確には、山頂まであと少しっていうところで、引き返してしまう。

引き返しちゃうことは確かにジェフにはすごく残念だと思う。でもジェフにとっては10年越しの憧れの山にその憧れの原因となった人とともにチャレンジできたっていうこと、またその途中で出会った様々な困難を克服すること、自然と触れて環境問題に考えること、すべてをひっくるめてこの冒険はすごく貴重な経験だったんじゃないかなーって思いました。

絶対成功する冒険なんてあり得ないし(もしあったとしたらそれは冒険じゃないよね)、失敗する可能性、挑戦して命を落とす可能性、あきらめざるを得ない可能性があることにチャレンジすること。そしてそのチャレンジの過程で得られるさまざまな経験こそが「冒険」なんだなーと(あきらめることが描かれることによって逆に)強く思った。

(そのまえにカフェで友達と話していた、形に残らない喜び、っていう話とも関連して、ここは本当にいろんなイメージがわいてきました)

そして、現代の冒険はそのような挑戦になってないとイヴォンは言う。「今は冒険という言葉が安売りされている」と彼は述べる。ここでは「大金を払ってシェルパを雇い、彼らの引いたロープで挑む」って形でエベレスト登山が批判されていた。イヴォンは「本当の冒険とは未知なものに挑む態度のことだ」って述べていました。

僕はこの「未知なるものに挑む態度」っていう言葉はなにも冒険に限らないし、そしてそれは現代に生きる我々にすべからく足りないものなんじゃないかなー、と解釈した。

この映画でも、環境問題を論じる途中で「都市の人々はイヤフォンを耳に突っ込んで自分に閉じこもる」っていう言葉が出てくるんだけど、そのような行為に象徴されるように私たちは生活から「不確かなもの、意味の分からないもの、裏切るかもしれないもの」を追い出そうとしてるんじゃないかな。そのようなノイズを自分の生活からなるべく遠ざけて、いわば完成された予定調和に我々は過ごしてしまっているんじゃないかと思った。

話が広がるけれど、小説や映画、音楽など様々な表現において、現代では「未知なるもの」が排除されている傾向が強いのではないかなーと感じました。詳しくは長くなるから省くけど、巷にあふれるさまざまな表現は1から10まで懇切丁寧に説明し過ぎだと僕は思う。様々な解釈がなされうるような、いわば「余白」のある表現が現在は少なくなっているんじゃないかなあ。そのような表現が求められている時代なのかもしれないけれど。。

最後にイヴォンが言う「ナチュラルに生きる」とは。この映画では環境問題の文脈で説明されていた。しかし僕はもっと大きな解釈として、「未知なるもの」を追い出すことなく、自分と異質なものを恐れることなく共存すること。それが「ナチュラルに生きる」ってことだと解釈しました。




ともかく、映像美はいわずもがな、単なるドキュメンタリーにとどまらず様々なイメージを喚起するとってもいい映画でした!
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