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猫まっしぐら。投瓶通信です。
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借り物とこれから
最近、借り物のことばしか吐いてない気がする。

例えば。
今日「トゥルーマンショー」という映画を見ました。で、「空中キャンプ」(名ブログ!)に書いてあったし、影響受けてなんか感想書こうかなーと思ったわけですよ。てか、実際書いたんだけど、「なんかなあ・・・」と思ってお蔵入りにしてます。なんかしっくりこないというか、自分の書きたいことじゃなかったんだよね。最近は一事が万事この調子で、何か書こうとしたりしゃべろうとしたり、とにかく表現したりしようとするとしっくりこないことが多い。

これはなんでかなーと思ったところ、冒頭の通り「借り物のことば」が俺を浸食しているからじゃないかな、と。

なんか、自分でいうのもすごくアレな話ですけど。おれってけっこういろんな本読んでると思うんスよ。大澤真幸とかほとんど読んだしさ、浅田彰とかジジェクとか?読んでるし?なかなかいい感じだと思うんスよ(照)

でも、なんかそういう哲学的な観点とか、レトリックとか、そういうものにいっぱいふれすぎたせいで、「せいで」っていうのもおかしいけど、自分の心からほんとうににじみ出るような気持ちをうまく表現できてない気がするなあ。

例えば。また「トゥルーマンショー」の話ですけど。映画を見て最初に思ったのは「ああ、この主人公は自然の人工性を暴こうとしているなあ。ん?これってマルクスのイデオロギー批判といっしょだよな。でも今の社会は<心理学化><社会学化>していてそういう潮流とは違うのかなあ」とか小難しいこと考えてました。

そういう哲学的なことと、自分の考えを高い次元でコネコネして自分の考えをうまく表現できる人ならいいけど、少なくとも俺はそうじゃないなあ。むしろそういう考えに引っ張られて、自分のほんとうに思っていることが曇ってしまっているような印象がありました。

だから、これからは小説、映画、音楽とかいろいろな表現に接しても、今ある自分の知識に簡単に当てはめて安易な方法に逃げるのではなくて、もっと自分の考えとか感情にまっすぐ向かい合ってみようと思いました。

意味が分からなかったり、理解できなかったり、裏切られることを恐れずに、物語にぶつかっていきたいと思います。

また、なるべく素直に、自分の感じたことも表していけたらと思う。今まではそれこそ哲学的なフレームワークに安易に頼ることで、一見変わっているっぽいことを書いていたけど、それももうやめだぜ!語彙が少なくても、貧しいことしかかけなくても、これからは自分の心を反映しているのが一番!
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他者について。第三者の審級について。
『<自由>の条件』から他者について。考えをまとめる練習的なやーつ。でも肝心なところが理解はできるけど、「腑に落ちる」というか心から実感を伴って納得できていないので、その点も書きます

ーーーーーーーーーーーーーーー

・「他者」について

他者とは不思議なものだ。不思議というか、端的に謎である。何を考えているかわからないし、何を感じているかは永遠に(他者が他者である限り絶対に)共有できない。これは考えると結構怖いことで、私の隣にいるものは、本当は謎に包まれた得体の知れない「他者」だ。まったくの不確実である種危ないやつなのだ。大澤真幸はこれを「他者とはある意味で(端的に知覚不能という意味で)死の体験だ」と述べている。

しかし、私たちは日常的に他者と接している。知っている人はもちろん、外に出て電車に乗ったりすれば全く知らない人と隣に座ったりしている。他者の危なさ=不確実さはどのように縮減されているのか?

私たちは日常的に他者と話したり、目が合ったり、触れたりする。その他者と接するところに不確実さを縮減する萌芽がある。

他者と接するときには常に2つのベクトルが存在する。「私→他者」と「他者→私」どちらか一方だけのベクトルはありえない。どちらか一方だけのベクトルの場合は対象物は「他者」ではなく「もの」として私にあらわれる。「他者」を見ることは見られることでもあるし、他者に触れることは他者に触れられることでもある。

しかし、その他者の現れ方は非常に独特だと大澤真幸は言う。「「他者」は私にとって徹底的にネガティブな形で現れる。他者は私が捉えようとしたその瞬間に逃れ去ってしまう。」「他者」の視線や肌のぬくもりを意識したとたん、その「他者性」は逃れていってしまい、私たちは「他者性」を痕跡としてしか感じられない。いわば「他者性」は「永遠の過去」として私たちにたち現れてくるのだ。

この「永遠の過去性」が他者の不確実を縮減する「第三者の審級」を生むのだ。

私が他者を追い求めると、その他者はもはやそこにはいない。このことがさらに私の前に立つこの他者とは異なる他者 ー同じ空間のうちにあって私と顔を合わせて対峙することがあり得ないー 、「かつて私を見ていた」「かつて私に触れていた」と見なしうる他者が存在していたことを含意するものとして、感受されることになるのだ。

つまり、「他者」とは私にとって常に過去(そこにあった)という形で感じられるそのことが、間主体的な身体=第三者の審級を生むということだ。

こうして「他者性」の過去性が抽象的な間主観的ネットワークを生み、他者の不確実性が縮減される

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以上が大澤真幸の「第三者の審級」が生まれる過程の荒っぽい描写です。すごく抽象的でわかりにくいので、僕なりにくだけた形で言い換えると、

「他者っていうのは常に過去形で感じられる。もしくは他者っていうのは常に痕跡を感じるものだ。」

「つまり、私たちにとって他者は常に過去。そうすると常に過去にいたっていう「ぼんやりとした他者」っていうのが生まれる。人がその存在を何となく感じられて、行動や考えになんとなく基準や規範をもたらしてくれる抽象的な他者が生まれる」

っていうことなんだけど、やっぱり自分で書いてても、なんとなくしっくりこないというか。とくに太字にしたところが納得できないな。

「他者を感じるのは常に過去系→常に過去にいたと感じられる規範や基準をもたらしてくれる抽象的な他者」っていう論理の流れはわかる。

ただ、他者は常に痕跡を感じるもの→共同主観の成立=他者の未来性の縮減=他者の不確実性の縮減って考えると全然わかんなくなるな。不確実性の縮減って言うことは、ある程度「行動の幅」が定まると言うか、突拍子もないことをする可能性がなくなっているっていうことでしょ?

なんで「他者性は常に過去形」だと他者の行動まで予測可能になるんだ?時間を一本の軸として論理を転がしている気がするなあ(もちろん私の理解力が及ばないだけであり、これはイチャもんです。真幸先生ごめん)

ーーーーーーーーーーーーーーー

ただ、この第三者の審級っていう考え方はすごく面白くて、いろいろなことがこれに結びつけて説明できます。

たとえば、この本の中で述べられていることだけど、スポーツにもこの第三者の審級は関連してます。

いままで、誰も成し遂げられてない記録(例えば100メートル9秒台とか)が1人によって達成されると、その記録を多くの人が達成できるようになるのか?

これは大澤真幸によると、その記録が第三者の審級に承認されることによって、多くの人によって到達可能な記録と考えられるためだということです。

僕なりに言い換えると、「一回達成されると、その記録が人々が狙う範囲内に入る」って言う感じでしょうか。

もちろん、アスリートの人は前人未到の記録に到達してやろうとがんばっている訳だけど、共同主観に絡めとられて生きている人は「無理なんじゃないか」って無意識下で思っちゃってるんじゃないか。

でも、「天才」って呼ばれる人はその共同主観に登録されていない記録を狙うことができる。つまり「共同主観を更新できる」人なんじゃないか。

この考えはとても納得できるものであった。天才って言われるプレーヤーはどこかエキセントリックなところがあったり、性格面も尖っているところが多いのはそういう心の機制があるからなんだなーと思った。

そういえば、自分が好きなサッカー選手もそういうようなキャラクターが多いなって思った。いや、サッカー選手に限らず、自分はそういうキャラクターに人よりも強くあこがれを抱いていると思う。

まあ、何はともあれ、スポーツにも(というか人間社会の多くの場面に)考えを敷衍できる第三者の審級です。初見だと何となくつかみにくいけど、大澤真幸をいろいろ読んでいるうちに立体的にわかってくるし、ラカン・ジジェクなんかの「大文字の他者」と非常に近いので理解できるとその辺もわかりやすく読めると思います。



・・・文章の終わらせ方って難しいなーw 空中キャンプはやっぱりすげーや。でも文章書くと新たな考えとかが生まれたり、「俺って感覚で理解してんなー。もっと論理的に説明できるように理解しなくては」と反省したりと、文章書くのは面白い体験だと改めて思ったのでがんばって更新していきたいです。
『自由の条件』を考える
今読んでいるのは大澤真幸『自由の条件』。『量子の社会哲学』とかに引き続き読んでるので文体にもすっと入れて読みやすい。いや、少なくとも文体から意味が取れないってことは少ない。ただ内容がよくわかんないところはあるけどw

まだ途中だし、結論にももちろん至っていないけど、様々なモチーフがちりばめられていたので、いままでピンときたところを書く。

・因果関係と自由について。
まずちょっと考えれば考えつくけど、因果関係に支配されたこの世で自由な営みっていうのは本当にあり得るのか?っていうのは至極真っ当な意見だと思う。
例えば今みんなが抱いている感情も結局は脳内の科学物質の現象なわけじゃん?じゃあ、その反応としての現象を生み出す刺激って言うのが存在して、また結果としてその刺激を生み出す反応なり現象があって・・・(以下無限ループ)

そうすると自分が恣意的に選択できる自由な営みって言うのは存在するのか?

これは古典的にはラプラスの悪魔かな?そんな疑問として哲学的には存在していると思う。(哲学的に論破されているのかな?)(多分量子科学とか持ち出すと地学なってくるのかな?観測が存在に影響を与えることの不可避、みたいな)

で、大澤真幸はこれを否定して、自由の存在する余地を確保する。
そこで出される例ってのが「封筒を開封する前に舌打ちをする人」って言う話。これは単なるジョークみたいなもんで、ある人は封筒が届けられると必ず舌打ちをしてから開封する。「何だってそんなことをするんだい?」って聞くと、「舌打ちしてからあけると、請求書が入ってたことがないんだ。」っていう。

「これをただ単に滑稽と片付けてはならない」と大澤は言う。「いや、むしろ滑稽どころか、これと同じ光景を我々はシリアスな場面の至る所で目にする。」

その1つの例が「祈り」だ。「祈りの時間性」を考えると因果関係を全くの自明なものとして捉えることはできなくなる。
例えば試験。試験が終わった後で僕たちの多くは「合格していますように」と祈る。しかし、因果関係から見るとこれは全くの無意味だ。試験が終わった後でどんなに祈っても結果は変わらない。しかし我々は祈る。

つまり、因果関係っていうのは過去と現在の出来事をつなぐための「了解の仕方」にすぎないのではないか?

いや、この言い方はうまくないな。論理の飛躍がある。なんて言ったらいいのかなあ?

じゃあここで精神分析の例を出そう。
精神分析において著名な概念として「トラウマ」がある。ご存知の通り幼少期の過酷な体験がその後の精神病の原因となることだ。しかし、幼少期の体験はその場ですぐ精神病の原因となる訳ではなく、そこには遅れが存在する。
その遅れとは。幼少期の体験がトラウマとなるには、その後に「意味の体系」が獲得されることが必要。
その意味の体系を得た地点から見返して、幼少期の体験がそこに収まりきらないためにトラウマが発動する。



ここで長々書いてきたことを僕なりの言葉で言い直す。
「過去の出来事の意味はそれだけでは一義的に確定しない。過去を見返す地点の主体の状態や状況においてその過去はいかようにも意味を変え得る。いや、正確には物事の意味は確定的にはどこにも存在しない。その後の地点から見返したときに現在とうまくつながるように過去は意味を与えられる。過去と現在のつながりを説明する一つの方法として因果関係というのが存在するのだ。」

思えば僕も過去の嫌な思いをした経験が、その後の地点から苦しくも輝かしい一歩として見返すことができたことがある。そこに自由があるんだ。




ま、僕のことなんてどうでもいいけどね。てか自分のことに結びつけようとすると一つのトピックでめちゃめちゃ長くなるなw あと、文章にしようとすると自分が本当に腑に落ちて理解できてないことがよくわかるな。

もう2〜3こトピックをいれて更新しようと思ってたけど、また次回だな。


カントのアンチノミーと男と女について。
他者の未来性を過去に変換する。
逃れ続ける顔と尺度と人間の価値について。
かな
あけましておめでとうございます!
大桟橋に初日の出見に行った!年始にアグレッシブに外出するのは人生初だったけど、きれいだったし、なによりメンツがとっても居心地がよくて本当に楽しかった!


てか!最近空いた時間はツインピークスと映画鑑賞にとられてぜんぜんブログ更新できてない!ださい!ちょっとじっくり時間を取って『自由の条件』の「他者が未来から過去へと反転すること」と「カントのアンチノミーと男と女」のこと書きたいなあ。


とにもかくにも今年もよろしくお願いいたします。もう一つのブログも更新しなきゃなあ
pkjbkhゔぉjk;
にゃ!

あれから「現代宗教意識論」大澤真幸著読みました。きちんとまとまった文章にするのは難しいかもだけど、いろいろと思ったことを書きます。

まずはやっぱり「サカキバラ事件」の論考が面白かった。そんなかでまず面白かった点は「自分の認識のうちに意味が立ち上がってくるにはそれを保証してくれる他社の存在が必要」って言う点。これは大澤真幸にはおなじみの「第三者の審級」そのものって訳だけど、そういう捉え方をするとまた「第三者の審級」の意味が立体的になる。

これは廣松渉の「世界の四肢的構造」っていうのとほぼ同じ構造。

「四肢的構造」=「例えば目の前のコップ。このコップはガラスのある形をした固まりにすぎないが、私はこれをコップとしてとらえている(割れてしまってもガラスの破片のあつまりではなく、コップが割れたものとしてとらえる)。このメカニズムはガラスの固まりをコップとしてとらえる抽象的な他者の存在が無意識にせよ確信されていて、その価値観が自分にもインストールされている。」

って感じかな

で、少年Aはこの世界を裏から支えて意味を供給している視点が信じられなくて、「人の壊れやすさを試そうと犯行を重ねた」っていう論考。それに関連して「量子の社会哲学」でも触れられた「顔の顔性の不可能性」って言う論が続く。顔をわざわざ見てから殺すって想像すると確かに戦慄だわ。
それは簡単に言うと「人の顔には魂が宿っているように思える。しかし、顔を凝視してその魂=顔性をとらえようとすると、顔は途端に物質に還元して魂は逃れ続ける」って言う感じかな。

ぼくは人と話すときに顔をみて話すのが苦手だ。顔から魂が感じられるのが怖いのかも。なんか、予想外のことが起こりそうなんかな。これ考えてみよ。

で、ここから続く

その少年Aが世界の意味が信じられなくなったのは阪神大震災を経験したからだ

って言うところがこの本で一番面白かった。たしかに、自然災害で世界が崩壊するっていうのは、圧倒的暴力で、世界認識までも壊してしまう暴力なのかも。

でも、自然の人工性を暴くっていうのが思想の役割だって東浩紀は言っていたけど、それと大震災は違う話なんだろか。あーイデオロギー批判ってその世界の意味を支える審級を批判することなんかなー。書きながら理解に至ったw




あと、加藤智大の秋葉原事件の論考も面白かった。そのなかで、非正規雇用者は大文字の大義のために働けないって言うのが如実に現れる場所だっていう論旨。この議論は正直荒くて、あまり知的刺激はなかった。

ただ、真木悠介の「への疎外」と「からの疎外」を使った考察は興味深い。非正規雇用者は「からの疎外」からも疎外されているっていうちょっと入り組んだ議論。

まあ、議論の詳細はいいんだけど、この論考だと「への疎外」はあった方がいいってことなのかな?真木悠介の議論は「からの疎外」に悩んでいるときは「への疎外」に思い至ると視野が広がるって言う議論だった気がするけど。。。

真木のときは政治の季節で大文字の大義のプレゼンスが大きすぎたから、そのオルタナティブとして言ったけど、いまは逆になさすぎるからいわば裏返した形で真木悠介をつかっているのかなあ。






今回はこーんな感じ!あんまりまとめるのはうまくないし、もうちょっと自分の考えを入れたアウトプットにしたい。ただ、このブログいい媒介になっている気はする。あ、結局「量子の社会哲学」のこと書いてねーやw ま、いいか。もう一度じっくりよんで書きたいな。柄谷行人も今年の3冊にあげてるくらいだしね



















俺は俺なりの時間の使い方をしてきて、それがまだ形になってないけど、テクストを読むことや映像を見ること、いろいろなことを考えることを通していい体験はしていると思う。そういう意味でインプット量では負けたくないし、そこから最大限得れるようにしているのも自信がある。いつかあの哲学が俺を救ってくれると信じてる。
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