猫まっしぐら。投瓶通信です。
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『自由の条件』を考える
2011.01.07 Friday
今読んでいるのは大澤真幸『自由の条件』。『量子の社会哲学』とかに引き続き読んでるので文体にもすっと入れて読みやすい。いや、少なくとも文体から意味が取れないってことは少ない。ただ内容がよくわかんないところはあるけどw
まだ途中だし、結論にももちろん至っていないけど、様々なモチーフがちりばめられていたので、いままでピンときたところを書く。
・因果関係と自由について。
まずちょっと考えれば考えつくけど、因果関係に支配されたこの世で自由な営みっていうのは本当にあり得るのか?っていうのは至極真っ当な意見だと思う。
例えば今みんなが抱いている感情も結局は脳内の科学物質の現象なわけじゃん?じゃあ、その反応としての現象を生み出す刺激って言うのが存在して、また結果としてその刺激を生み出す反応なり現象があって・・・(以下無限ループ)
そうすると自分が恣意的に選択できる自由な営みって言うのは存在するのか?
これは古典的にはラプラスの悪魔かな?そんな疑問として哲学的には存在していると思う。(哲学的に論破されているのかな?)(多分量子科学とか持ち出すと地学なってくるのかな?観測が存在に影響を与えることの不可避、みたいな)
で、大澤真幸はこれを否定して、自由の存在する余地を確保する。
そこで出される例ってのが「封筒を開封する前に舌打ちをする人」って言う話。これは単なるジョークみたいなもんで、ある人は封筒が届けられると必ず舌打ちをしてから開封する。「何だってそんなことをするんだい?」って聞くと、「舌打ちしてからあけると、請求書が入ってたことがないんだ。」っていう。
「これをただ単に滑稽と片付けてはならない」と大澤は言う。「いや、むしろ滑稽どころか、これと同じ光景を我々はシリアスな場面の至る所で目にする。」
その1つの例が「祈り」だ。「祈りの時間性」を考えると因果関係を全くの自明なものとして捉えることはできなくなる。
例えば試験。試験が終わった後で僕たちの多くは「合格していますように」と祈る。しかし、因果関係から見るとこれは全くの無意味だ。試験が終わった後でどんなに祈っても結果は変わらない。しかし我々は祈る。
つまり、因果関係っていうのは過去と現在の出来事をつなぐための「了解の仕方」にすぎないのではないか?
いや、この言い方はうまくないな。論理の飛躍がある。なんて言ったらいいのかなあ?
じゃあここで精神分析の例を出そう。
精神分析において著名な概念として「トラウマ」がある。ご存知の通り幼少期の過酷な体験がその後の精神病の原因となることだ。しかし、幼少期の体験はその場ですぐ精神病の原因となる訳ではなく、そこには遅れが存在する。
その遅れとは。幼少期の体験がトラウマとなるには、その後に「意味の体系」が獲得されることが必要。
その意味の体系を得た地点から見返して、幼少期の体験がそこに収まりきらないためにトラウマが発動する。
ここで長々書いてきたことを僕なりの言葉で言い直す。
「過去の出来事の意味はそれだけでは一義的に確定しない。過去を見返す地点の主体の状態や状況においてその過去はいかようにも意味を変え得る。いや、正確には物事の意味は確定的にはどこにも存在しない。その後の地点から見返したときに現在とうまくつながるように過去は意味を与えられる。過去と現在のつながりを説明する一つの方法として因果関係というのが存在するのだ。」
思えば僕も過去の嫌な思いをした経験が、その後の地点から苦しくも輝かしい一歩として見返すことができたことがある。そこに自由があるんだ。
ま、僕のことなんてどうでもいいけどね。てか自分のことに結びつけようとすると一つのトピックでめちゃめちゃ長くなるなw あと、文章にしようとすると自分が本当に腑に落ちて理解できてないことがよくわかるな。
もう2〜3こトピックをいれて更新しようと思ってたけど、また次回だな。
カントのアンチノミーと男と女について。
他者の未来性を過去に変換する。
逃れ続ける顔と尺度と人間の価値について。
かな
まだ途中だし、結論にももちろん至っていないけど、様々なモチーフがちりばめられていたので、いままでピンときたところを書く。
・因果関係と自由について。
まずちょっと考えれば考えつくけど、因果関係に支配されたこの世で自由な営みっていうのは本当にあり得るのか?っていうのは至極真っ当な意見だと思う。
例えば今みんなが抱いている感情も結局は脳内の科学物質の現象なわけじゃん?じゃあ、その反応としての現象を生み出す刺激って言うのが存在して、また結果としてその刺激を生み出す反応なり現象があって・・・(以下無限ループ)
そうすると自分が恣意的に選択できる自由な営みって言うのは存在するのか?
これは古典的にはラプラスの悪魔かな?そんな疑問として哲学的には存在していると思う。(哲学的に論破されているのかな?)(多分量子科学とか持ち出すと地学なってくるのかな?観測が存在に影響を与えることの不可避、みたいな)
で、大澤真幸はこれを否定して、自由の存在する余地を確保する。
そこで出される例ってのが「封筒を開封する前に舌打ちをする人」って言う話。これは単なるジョークみたいなもんで、ある人は封筒が届けられると必ず舌打ちをしてから開封する。「何だってそんなことをするんだい?」って聞くと、「舌打ちしてからあけると、請求書が入ってたことがないんだ。」っていう。
「これをただ単に滑稽と片付けてはならない」と大澤は言う。「いや、むしろ滑稽どころか、これと同じ光景を我々はシリアスな場面の至る所で目にする。」
その1つの例が「祈り」だ。「祈りの時間性」を考えると因果関係を全くの自明なものとして捉えることはできなくなる。
例えば試験。試験が終わった後で僕たちの多くは「合格していますように」と祈る。しかし、因果関係から見るとこれは全くの無意味だ。試験が終わった後でどんなに祈っても結果は変わらない。しかし我々は祈る。
つまり、因果関係っていうのは過去と現在の出来事をつなぐための「了解の仕方」にすぎないのではないか?
いや、この言い方はうまくないな。論理の飛躍がある。なんて言ったらいいのかなあ?
じゃあここで精神分析の例を出そう。
精神分析において著名な概念として「トラウマ」がある。ご存知の通り幼少期の過酷な体験がその後の精神病の原因となることだ。しかし、幼少期の体験はその場ですぐ精神病の原因となる訳ではなく、そこには遅れが存在する。
その遅れとは。幼少期の体験がトラウマとなるには、その後に「意味の体系」が獲得されることが必要。
その意味の体系を得た地点から見返して、幼少期の体験がそこに収まりきらないためにトラウマが発動する。
ここで長々書いてきたことを僕なりの言葉で言い直す。
「過去の出来事の意味はそれだけでは一義的に確定しない。過去を見返す地点の主体の状態や状況においてその過去はいかようにも意味を変え得る。いや、正確には物事の意味は確定的にはどこにも存在しない。その後の地点から見返したときに現在とうまくつながるように過去は意味を与えられる。過去と現在のつながりを説明する一つの方法として因果関係というのが存在するのだ。」
思えば僕も過去の嫌な思いをした経験が、その後の地点から苦しくも輝かしい一歩として見返すことができたことがある。そこに自由があるんだ。
ま、僕のことなんてどうでもいいけどね。てか自分のことに結びつけようとすると一つのトピックでめちゃめちゃ長くなるなw あと、文章にしようとすると自分が本当に腑に落ちて理解できてないことがよくわかるな。
もう2〜3こトピックをいれて更新しようと思ってたけど、また次回だな。
カントのアンチノミーと男と女について。
他者の未来性を過去に変換する。
逃れ続ける顔と尺度と人間の価値について。
かな
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